貫禄屋の歴史

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<全体の歴史>
我が家の家系図は,朝鮮の役中に船中にて火災焼失とあり,家系図はありませんが,歴代が書き継いできた、諸記と言う古文書があり,最近の、維新の一冊を解読してあります。
その他に、長門の西寶寺にお預けしてある過去帳などから、先祖を辿ることが出来ます。
千代田町史にも書かれてありますが、1517年の千代田の戦で、毛利に敗れ、長門に逃れたことが判っており、長門の我が家の墓苑にある最古の墓碑が、1532年に先祖累世を祀るとして建てられております。
1517年から1532年頃まで大内義隆の長門 大寧寺での自刃、陶晴方の厳島での滅亡など安芸長門で続いた騒乱が、其の頃終わり、大内方であった我が家が毛利の客将として、安定したのだと考えられます。
我が家は、日清戦争後に台湾統治に参画し、台湾の基隆と新竹に根を張って来たのですが、先の敗戦ですべてを失ってしまい、1946年、引き揚げ、東京・小金井から再発足しました。

<家主の家系の歴史>
家主の実家は広島にあります。
先に記載した千代田の時代に,祖先が東京と広島に分かれた経緯があります。
広島の家系は原爆により,過去帳が消失しましたが,記録を復元した限りでは店長は6代目となります。
千代田から広島に移り住んだ後,庄屋としての役割を担っており,屋号が“貫禄屋”となります。
本ホームページの名前の由来はここから来ています。

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